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不用品処分に懸ける

異国の征服者であるフランク族は田舎に居住する民であったために、都市の衛生美化を少しも気にとめなかったからである。 メロヴィング朝時代〔五世紀後山一八世紀半ば〕には、敵を最大限に侮辱する方法として、「通りの臭い泥」を相手の顔めがけて投げつけるという手荒いやり方が実際に行われていた。
たとえば、西暦五八四年、ネウストリア王シルベリク一世を暗殺し、シルペリク一世の妃〔王妃ガルスウイント〕を殺して王の地位を得ていたフレデコンド〔シルペリク一世の妾〕が、前妃の妹ブリユヌオーの使者に対してこの泥を投げつけたと伝えられている。 当時の人びと、あるいはカール大帝の時代の人びとは、こうした泥だらけの都市で暮らしていた。
「何でも通りに捨てろ!」「みんな川に投げ捨ててしまえ!」というのが当たり前のご時世だったのだ。 ハレンチにも、ごみや糞便が通りで幅をきかせ、住民は悪臭を放つ廃棄物とごみだらけの雑踏で生活することを余儀なくされていた。

中世の都市に居住する住民たちは、「気をつけろ、水だぞ!」とか「下に注意しろよ!」と通りを歩く人たちにひと声をかけてから、遠慮なくごみや排植物を戸口や窓から放り捨てていた。 とはいえ、せっかくのこうした心づかいもむなしく、通行人は汚物の投げ捨てによる被害を避けることはできなかった。
かのルイ二世も、夜中に散歩している途中にある学生が捨てた浬瓶の中身をかぶった被害者の一人である。 しかし、ルイ王はその所業をうらむことはなかった。
それどころか、寸暇をおしんで学業にいそしむ学生の真撃な姿勢をほめ、その学生に対して奨学金を与えたと伝えられている。 行政府からの度かさなる勧告にもかかわらず、この悪習は延々と続いた。
それはエミール・イデゾラの小説『大地』の一節にも見出される。 「開け放たれた伽航窓から、ごみがどっと捨てられると、さながら糞の山となる。
それは婦人たちのドレスに上から下まではねあがり、服を台なしにしてしまった。 いったいこんなことをする卑劣なやからはだれだ」。
一九五〇年頃まで、たとえばマルセイユやソーミユールといったフランスの都市では、主婦たちは、毎朝、生ごみや汚水バケツを道路の脇まで運ぶ手間をおしんで、それを窓から捨てていた。 このように、何世紀にもわたり、多くのヨーロッパの都市は汚れ放題であった。
行政当局がいくつもの条例を発布したものの、こうした状況を改善する積極的な取りくみはなされてこなかったのである。 たとえば、パリの歴史はその点について多くのことを語りかけている。
フランス王支配下の不潔なパリ未舗装で、狭く、曲がりくねった中世都市の街路は、空気がよどみ、陽射しもあたらなかったといわれる。 地面は泥にまみれ、糞便、泥水、生ごみ、馬糞、豚や家禽の糞尿であふれていた。
街には便所や便査がどこにも見あたらず、通行人はところかまわず生理的欲求のおもむくままに用を足していた。 効果的な排水装置がなかったため、雨期ともなるとごみ混じりの汚水はよどみ、荷車は通行不能となって、道が汚水溜めと化してしまったのである。

たしかに、雨の日には軒先の吐水口から流れでた雨水が歩道を洗い、路の中央部にある溝を通って家庭排水や沿道の住民が投げ捨てたごみを下水道に排出していた。 ところが何たることか、排水用の溝はしょっちゅう詰まる。
そうなると、路地はひどい悪臭を放つ泥招と化すのである。 そればかりか、パリでは下水が直接セーヌ川に流れこんでいたが、そのセーヌの水を樽に詰めて、運搬屋が肩から背負い、貴重な飲料水として住民に配っていたのである。
何世紀もの問、都市は伝染病の猛威にさらされて甚大な被害をこうむってきた。 なかでもペストはあまたの人命を奪い、ヨーロッパでは、一三四六年から二二五三年にかけて数百万人もの犠牲者をだした。
百日咳も猛威をふるった。 カトリーヌ・ド・メディシスの最初の主治医は、一五六九年に百日咳が原因で死亡しているし、一五人〇年の流行時には約一万人ものパリ市民が死亡した〔病気が発生した家には、警告の印として二カ月の間麦藁の束を窓辺にぶら下げておくよう命じられていたという〕。
モンマルトルやサン・マルソー街には、パリ市立病院の病室不足をとりあえずしのぐために、病人を収容するテントが張られた。 大学の医学部では実地調査に乗りだし、伝染病の原因として下水道とごみ捨て場に疑いの目を向けた。
ルテティア紀元前2〇〇年頃、ガリアの漁師たちがセーヌ川最大の島(シテ島)に小屋を建てて住みついた。 これがケルト語で「水中の住居」を意味するルテティア(古代のパリの呼称)のはじまりである。
満王の長子が乗馬中に豚と衝突して落馬した通り(フォープル=サン=タントワーヌ通り)に面している。 イソワール墓地はガリア=ローマ時代から石切場として知られていた。

現在のカタコンブ(地下納骨所)である。 四辺形の土地。
その昔、6〇人の死刑囚をぶら下げることのできる絞首台が立っていた場所でもある。 ごみの放つ悪臭は、一六六六年、ペストがフランス北西部の都市アミアンに大きな被害をもたらした際にも糾弾の対象となり、時の行政当局は「悪臭を発する泥とごみ」を町から運びだすよう命じている。
ルイ一二世に仕えた医者のように、水質を問題にした者もいる。 実際、一六五〇年には「今後、川の水は飲むべからず!」とする勧告がなされた。
それは適切な助言であったが、川の水に代わる飲料水が見つからなかったため、結局、川の水の飲料禁止は長くは続かなかった。 ペスト発生の原因は天体の運行に関係があると考えられていた。
たとえば、医師フランソワ・ド・クールセルは、「最も恐るべきペストが起こるのは火星、土星、それに木星の位置に原因がある」とする意見を発表している。 別の医師クロード・フアブリは、「尾を東の方向に向けた琴星、あるいは天の中央に琴星が出現した場合にはペストの発生を注意しなくてはならない」と述べている。
一一世紀初頭、ごみは静かにひろがり続け、パリをむしばんでいた。 「上を向いて」歩いていると、泥にはまったり、轍に足をとられる危険があった。
建物の整備が進み都市が変革したせいで、事態はさらに悪化した。 たとえば、屋台ではガラスケースが普及し、売店の扱う商品が以前よりもきちんと保護されることになったのだが、ケースがあるためにかえって店先の掃除をしない習慣ができてしまった。
また、それまで街路を掃除する役割をはたしていた吐水口が、壁にそって垂れさがるパイプにとって代わられたため、ごみが街路に溜ることになった。 現在のシテ島。
七五〇年、ルソーは「さらば、泥の街よ!」と一言ってフランスの首都をあとにした。 ルソーの言葉通り、パリは長年にわたって「泥の街」という名で知られていた。
そもそも、ローマ帝国時代のパリの名であるルテティア〔古代におけるパリの呼称。 正確にはパリシイ族が住んでいたシテ島内の一地域を指す〕とは、泥を意味するラテン語から派生した名称だ。

都市にしみこむ悪臭は、フランス革命の直前にいっそうひどくなった。 「街のあちこちで、悪臭のせいで花がしおれ、若者たちの美しさも色あせてしまった」と作家ピエール・シヨヴエは嘆いている。
吐き気を誘う悪臭は、牛乳やワイン、それにブイヨンさえも傷めるものだと非難の的になった。

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